大人病と少女葬~アーバンギャルド「少女フィクション」(2018)
はじめに
どうも、書きたいことが多すぎて整理できない〜!なアキオです。
みんなが新生活だなんだと新たな1歩を踏み出してる中で、やっべえ書けねえやばい…みたいに頭を抱えていました。マジです。
自分の買った新譜の話をしたいけど、でもヴィジュアル系求められてる節あるよな〜…みたいに謎のジレンマに陥ってました。
読者受けをいっちょ前に意識し始めてたとか恥ずかしさの極みですね、罵りましょう。
そんな時に購入した「トラウマテクノポップバンド」アーバンギャルドの新譜。
これを聞いて…前々から、ほんとに高校生くらいの頃からぼんやり浮かんでたものを言葉にできるかな、と思って書くことにしました。
難産が故に言葉を紡ぎあげたお見苦しさ、はありますがどうかお付き合いください。
アーバンギャルド「少女フィクション」(2018)
曲目
- あたしフィクション
- あくまで悪魔
- ふぁむふぁたファンタジ ー
- トーキョー・キッド
- ビデオのように
- 大人病
- インターネット葬
- 鉄屑鉄男
- キスについて
- 少女にしやがれ
- 大破壊交響楽
アーバンギャルドを語るのにまず外せないのは、
「少女」という存在についてである。
アーバンギャルドは一貫して、「少女」と向き合ってきた。
身体的な成長と精神的成長のアンバランスさに揺れる極めてアンバランスな存在。
あろうことか資本主義社会において商品価値を与えられてしまった、子供から大人への儚いモラトリアム。
そんな危うさと生きにくさをこのバンドは一貫して代弁してきたかに思う。
そして、
- 黒髪パッツンや水玉スカートにウィスパーボイス
- シンセ特有の磁器のような硬質で滑らかな音の質感
- 気持ち悪いほどに直接的に「性」と「聖」と「生」と「病」を叩きつける歌詞
- 土台としての役割ではなく装飾的なギター
- 毒々しいまでなポップさと情報量の多い実体を感じさせる音楽。
他にもまだ特徴はあるのだが、それらはバンドの音として外側にくっきりと外殻を与えるとともに、
相反するように内面の少女的脆さと曖昧さをもたらす。
このバンドはその不安定な「少女」というものに寄り添い歌うにはあまりにも適性がありすぎた。
まるで「少女」という「あまりにも不安定すぎてフィクションのようにしか思えない対象」を
まるで自身の存在の全てで表現しているかのようである。
そうやって惹かれてきたファンは特徴的で、
音楽的共通項ではなく、精神的共通項がある様に思う。
ある人は同じように黒髪パッツンだったり、またある人はロリィタ服だったり、ある人はコスプレチックだったり…
好きな音楽はバラバラであれど、ファンの根底に共通してるのは「抵抗」だと感じてる。
ロリィタ服も浜崎容子に容姿を近付けることも、少女的な偶像であることを自分に課す。
それは世間へだけの抵抗ではなく、
時間という不可逆の圧力に対する抵抗に思え、
それは儚くも一種の矜恃を感じさせる。
だが、現実とはなんと残酷なのか、そんな時間はいつまでも続かない。望みの有無に関わらず、
「少女」から「大人」にさせられてしまう。そうやって抵抗してきたファン達ですらもだ。
それを自覚せざるを得ない世間や時間の残酷さに立ち向かい、そんなファン達の葛藤や脆さに正面から向き合ってきた。
アーバンギャルドの10年はそんな極めて真摯な姿勢の10年に思える。
その10年の歩みを総括する今回の新譜は、彼らの根本的な音楽性を曲げることなく、ファンだった人にもファンではなくなってしまった人にもアプローチできる作品となった。
1曲目の「あたしフィクション」では、
CDをまるで供養にかけるかのごとく大量に使っているMVが目を引く。
アーバンギャルド - あたしフィクション URBANGARDE - ATASHI FICTION
フィクションという虚構と脆さを感じさせる言葉と細い声質が飛び交う中に、トレードマークの水玉。
そして対比されるかのような否が応でも力強さを感じさせる情報量の多い音作りと、毒々しいまでのポップなPV。まさしくアーバンギャルドである。
そして2曲目の「あくまで悪魔」でもその表現がブレることは一切ない。
歌詞も少女的な不安定な揺れ動く自我を歌詞に載せて叩きつけているのだが、曲中で松永天馬が
「君の唇 赤くなる理由を 誰も知らない知られちゃいけない 君の瞳が 濡れてる理由を」
と歌うのを聞くと、少女的な不安定さの中に「少女」から「女」へと変わってしまう瞬間が封じ込められているかのように感じ、いつ聞いてもドキッとさせられてしまう。
ただ、詩的なものに偏らずに、
松永天馬と向かい合うように弾いてるおおくぼけいのキーボードが単純にかっこいいという、
いかにもバンドらしい部分も感じさせてくれるのは彼らのバランス感覚がなせる技だろう。
アーバンギャルド - あくまで悪魔 URBANGARDE - AKUMA DES AKUMA
この他にも8bitやシンセを軸にポップなサウンドを展開するのがアーバンギャルドの特徴的だが、
そのポップさはぬるま湯めいたものでは無い。
瀬々信のギターやドラムを交え、時にフリーキーに時に直球勝負で多様な音を詰め込んだポップを奏でる様は、
彼らのビジュアルもあいまってポップとは毒々しいものなのだ、という印象を与える。
「トーキョー・キッド」や「インターネット葬」、「大破壊交響曲」などがそうだろう。
しかし、それだけに終わらないのがアーバンギャルドの引き出しの多さである。
ところで、アーバンギャルドのボーカルは女性である。と、すればそれは何を指すのか。
浜崎容子、彼女にも当然のように「少女」だった時期、「少女」から「大人に」させられしまった時期があるのだと思う。
これが男性が少女を歌うこととは全く違う意味を持つ。
筋肉少女帯を例に取り上げよう。
筋肉少女帯も「少女」をモチーフに「何処へでも行ける少女」や「少女の王国」「少女王国の崩壊」など様々な作品を手掛けているが、大槻ケンヂが「夜想 アーバンギャルド」で言っているようにそこに男性の理想像が投影されている、と本人も述べている。
それと比較するとアーバンギャルドというのは浜崎容子という主体的女性性が存在するが故に、女性であるがゆえの「少女」への存在の揺らぎやよりリアリティを持って迫ってくるように思う。
「大人病」のような自分は昔のままではなかった、という悲哀のこもった曲に顕著である。
「真夜中のベッドで気づいたの わたしもかかったの 大人病
好きだった歌はもう聴けなくて 好きだったドレスも着なくなる」
それはまるで自分にも向けられたものの様にもあるし、
大人になってアーバンギャルドを聞かなくなったかつてのファンにも向けられたようでもある。
この曲は松永天馬と浜崎容子の共作だが、女性と男性ではこの変化の実感度合いが全く違うのだろうなと感じさせる歌詞である。
この曲こそが今回のアーバンギャルドの象徴で、まるで自身の変化やファンの変化、その全てに赦しと癒しを与えるかのように思えた。
まるで「少女」だった自分やファン達の葛藤を手厚く葬るように。思うに葬式とは遺された全ての者達のためにあるのだ。
やはり節目に相応しい 、そう感じた。
他にも紹介したい曲、できればファンの1人としてちゃんとメンバーにも触れたいのだがそれはまたおいおい。
最後に
今回の記事を書くにあたって色々読んだり、考えたりしたのだが、自分が男性であるがゆえの難産さを感じた記事であった。
しかし、改めてアーバンギャルドというバンドのファンへの真摯さやバンドとしての変化を感じることが出来た。いちファンとして嬉しく思うし、今後も彼らの作る毒々しいまでにポップな楽曲を楽しみにするばかりだ。
最後に今回の記事を作成するにあたって読んだ参考文献のようなものやインタビューを載せておく。
参考文献
制服イズム〜禁断の美学 (トーキングヘッズ叢書 No.60)
- 作者: アトリエサード
- 出版社/メーカー: 書苑新社
- 発売日: 2014/10/27
- メディア: 単行本
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私の、内なる戦い〜“生きにくさ"からの表現 (トーキングヘッズ叢書 No.71)
- 作者: アトリエサード
- 出版社/メーカー: 書苑新社
- 発売日: 2017/07/28
- メディア: 単行本
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自分の書いた記事の中ではおそらく最も様々な所から表現を考えた記事である。
引用などではないが、直接にも間接にも影響してるので、気になった方は是非。
(文:アキオシロートマグル)