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2020年上半期のアルバム4選(From 名古屋)

 2020年上半期が終わりますが、皆さんいかがお過ごしですか。

 いいアルバムたくさんあるけど、ぶっちゃけ、今年は例のアレの影響で「もっともっと良作がリリースされるはずだったんだろう」って印象が強い。実際、リリースが遅れてしまったアルバムをいくつも見た。

 とまあ、ちょっと残念な上半期になってしまった。けれども出されたアルバムの質は申し分ないかなと。

 そんな中で、じゃあ僕の住んでる愛知県からはどんなアルバムが上半期に出たか、というところを振り返る内容を寄稿します。今回は4枚を選びました。

 

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1. Fish 「College was confused」

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 今年の名古屋の始まりはこれって感じだったと思う。出るか出るかと言われ続けたFishの新作。6曲入りでわずか7分のEP。爽やかに駆け抜ける。The Promise Ringみたいに青々としたパンクロック。

 リリースされてすぐに大須のFile UnderやAndyで飛ぶように売れまくった。まだライブを観る機会には恵まれてないけど。

 電光石火で歪んだギターが耳を通り過ぎていく快感が楽しめる。かなりおすすめ。

 バンドキャンプでも聞くことができるので、お手軽にいくならここから。

 

fishnagoya.bandcamp.com

 

 

2. The Rainy 「あなたの海」

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 名古屋産のバンドで個人的に一番好きなポストロック・シューゲイザーのバンド、The Rainyの、現在の3人体制になってからの最初のアルバム。

 前回の作品「Film」も素晴らしかったけど、今作はそれを大きく上回る。流れるようなサウンドスケープが大進化していて、するっと聞けてしまう。全体的な音像も前回より柔らかい。前作はブレイクからの轟音、今作は王道をいくような徐々に徐々に轟音に吸い込まれていく、そういう音が楽しめる。

 今年から東京にライブ活動の拠点を移す、というところでコロナの煽りを受けてしまっていて、心配である。早く東京で売れてほしい。ポテンシャルは十分すぎる。これを聞けばわかる。

 どうやら今のところ、今作はサブスクリプションでしか聞けないみたいなので、早くフィジカルが欲しいところ。

 

music.apple.com

 

 

3. EASTOKLAB 「Fake Planets」

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 おなじみのドリームポップバンド。個人的に、もう彼らのライブは結構見てるし、この新譜に入ってる曲はほとんど聞いたことがあったものが大概なので、「やっとでたか」というのが一番の感想。

 自信に満ち溢れてる感じがすごく出てるアルバムで、CDもケースの色が違うパターンを何種類も作ってリリースしてる。色の違いを楽しんだり、好きな色を探すのも楽しいと思う。絶対に売れるだろうという確信持ってるんじゃないかということを感じた。

 実際、内容は申し分ない。ハイライトは、ラストを飾る「Dive」。今のところ、このバンドの最高傑作といえる曲かも。アルバム全体でみると、前作よりギターサウンドが目立ってて、そこも好きなポイント。The 1975の2ndアルバムみたいな、アンビエントチックだけどロックで浮遊できるような音楽が好きな人にとって、とてもいいと思う。

 

music.apple.com

 

 

4. I Like Birds 「あめいろ」

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 Apple Light、mishca、me in grasshopper、softsurf、sitaqといった名古屋のバンドのメンバーによって構成されたバンド、I Like Birds の1st。構成される面々の時点で強い。

 サウンドも、それぞれのバンドが持ってる要素を合わせたような感じ。すごく上質なポップスになってると思う。めちゃくちゃ甘い。

 コーラスワークや単音のつなぎ方も綺麗で、つぶやくようなボーカルも良い。

 CD、カセットテープ、サブスクリプションと、楽しめるタイプも充実してる。個人的上半期名古屋バンドのハイライト。

 

あめいろ

あめいろ

  • I Like Birds
  • カントリー
  • ¥1071

music.apple.com

 

 

 そんなわけで、手短に4つの作品を選んでみた。全体的にチョイスがインディロック・オルタナに傾いてしまったけれど、どれもハズレ無しなので、ぜひ聞いてほしい。

 

 

(文:ジュン)

 

音楽を愛する映画監督ジョン・カーニーが伝えたかった本当のテーマ

元バンドマンの俳優というのは世界中にゴロゴロいる。

しかし元バンドマンの映画監督はあまりいないのではないだろうか。

 

アイルランド出身の映画監督ジョン・カーニーがそのうちの一人だ。

 

彼は1993年まで「The Frames」でベースを担当しMVなども自身で手がけた。

その後音楽を辞め、楽器のかわりにメガホンを取ったのだ。

そのためなのか彼の作る映画はどこか音楽界の華やかさだけではなく音楽への愛憎が見え隠れする。

 

そこが世の音楽ファンを魅了するのだろう。

私のそのうちの一人だ。

 

今回はジョン・カーニーを代表する音楽映画3作について書きたいと思う。

 

※以降、若干のネタバレと著者の個人的な意見がある。

ネタバレに関しては物語の核心をつくようなことは書かないのであまり気にしない人は予習がてら見てくれたら嬉しい。

個人的な意見に関しての反対意見などは受け付けていないのでどうかご理解いただきたい。

(私はこのブログの管理人ではないので。。。管理人が泣いちゃうから、、、)

 

 

紹介する映画は

ONCE ダブリンの街角で

・BEGIN AGAIN はじまりのうた

・SING STREET 未来へのうた

  

 

この3本はジョン・カーニーを代表する映画だ。

音楽映画といえば、ストーリーの過程で急に歌いだすミュージカルのような映画を想像するが、この3本は決してミュージカルではないと著者は思っている。

この3本の映画は「音楽を主軸に展開されるドラマ」なのだ。

物語の登場人物はもれなく全員音楽を愛し、劇中では歌を歌い楽器を奏でる。

しかし、これらは物語を彩るスパイスでしかなく、あくまでメインは主人公たちが織りなすドラマなのだ。そこがほかの音楽映画とは異なる点といえるだろう。

 

もう1点、ジョン・カーニー作品の特異点をあげたいと思う。

近年話題になる音楽映画…『ボヘミアンラプソディー』、『ロケットマン』、『イエスタデイ』などの映画の共通点といえば、主人公たちは才能に溢れ、多くのファンに囲まれ音楽家人生を謳歌するサクセスストーリー、ということだろう。

それはそれは華やかな世界の中にいながら、主人公たちは独自の苦悩に悩まされる。
それは我々のようなパンピーには到底わからない苦悩だ。

 

しかしジョンカーニーの映画は違うのだ。

ジョンカーニーが生み出した主人公たちは大成しない。

何物にもならないまま物語は終わる。

見る人からしたら物足りないと思う人もいるかもしれない。


しかし、そこがいいのだ。

すべての物語がサクセスストーリーにはなれない。


そんな音楽に対する華やかな世界だけではなく、シビアな面をジョン・カーニーは描いている。

それも露骨な挫折などではなく、時には恋人、時には家族、兄弟との会話などでそれを表現している。

一見では気づけないほど自然に描いているのだ。


前置きがかなり長くなってしまったが、ここから(やっと)映画の紹介をしたいと思う。

 



ONCE ダブリンの街角で

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恋人に振られ夢も希望も捨て故郷のダブリンに帰ってきた"男"。

昼間は好評なカバー曲を、夜の誰も聞いてないような時間にこっそりと自作の曲を路上で演奏しながら日々を過ごす。

そんなある日チェコ人の"女”と出会い二人は惹かれ合う。

"男"はもう一度本気で音楽をするためにロンドンへ向かう決意をし、レコーディングを開始する。

 

劇中、主人公達の名前は出てこない。

女に振られた"男"とチェコ人の"女"でしかないのだ。

しかしそんなことは全く気にならない。

実際、著者はこの記事を書くまでそのことに気づいていなかった(それもどうなのだろうか)。


物語には不必要な情報がほとんどないのだ。脱線することなく「男と女が出会い、仲を深めレコーディングをする」というストーリーのレールを進む。

この物語の中では主人公たちの「名前」すら不必要なのだ。

 

というのも、この映画は恋愛映画ではなく、そしてミュージカル映画でもないのだと私は思う。

 

ヒロインである"女"は、名前が出てこない代わりに「チェコ人」という情報が何度も登場する。

ダブリンの外れで花を売り、豪邸の家政婦をしながら移民街のようなアパートに家族と身を寄せ合いながら住んでいる彼女。

そして自由でどこへでもいけるのにそのことを忘れてしまった"男"。

この映画はそんな自由と不自由をテーマにした音楽映画なのだ。

 

余談だが、この映画の主人公であるシンガーソングライターの"男"を演じているのは、ジョン・カーニーが所属していたバンド「The Frames」のボーカルであるグレン・ハンサードなのだ。

それだけでこの映画を観る価値がグッと高まったと思うが、劇中の曲はすべてグレン・ハンザードとチャコ人の"女"役のマルケタ・イルグロヴァが二人で共作しているので、ぜひ聴いてほしい。

 


Glen Hansard, Marketa Irglova - Falling Slowly (Official Video)

 

 

 
・BEGIN AGAIN はじまりのうた

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恋人に裏切られ、ニューヨークを去ろうとしていたグレタは、ライブハウスで落ちこぼれの音楽プロデューサーのダンに出会う。

グレタの才能を見出したダンは、アルバムを制作するためニューヨークの喧騒渦巻く中で野外レコーディングを行う。

 

大まかな内容としては先述した『ONCE』にかなり近い。

しかし中身はかなりバージョンアップしているので、どうか「またレコーディングかい、、」なんて思わず観てほしい。

おそらく『ONCE』ではジョン・カーニーの理想は半分も表現できていなかったのではないだろうかと思う(制作費も普通の映画の半分以下だったらしいし、、)。

そのため、この『BEGIN AGAIN』こそが彼の作りたかった映画なのではないだろうか。

主題となっている「BEGIN AGAIN=もう一度」という意味もそこにかかっていたり、なんて考えるとワクワクする(これは完全に妄想)。

 

この映画の素晴らしい所は、まずレコーディングの情景だ。

 

ダンは落ちこぼれで自分が作った会社をクビになってしまう。そのため高額なレコーディングスタジオを借りるお金もない。

なぜ高いスタジオが必要なのか。余計な音が入らないようにだ。

ならば雑音も含めて曲にしてしまおう!とダンは考える。

 

そして車のクラクション、パトカーのサイレン、人々の話し声、地下を走る電車など、ありとあらゆる音が渦巻くニューヨークの街中でレコーディングを開始する。

時にタバコを餌に子供にコーラスをやらせ、時に警察に追われながら録音をするシーンは、音楽ファンでなくてもワクワクしてしまう。

 


Coming Up Roses - clip from the movie Begin Again Keira Knightley

 

さて、ではこの映画はこれで終わり、特に伝えたいこともない、ただアルバム作ってキーラ・ナイトレイマーク・ラファロがちょっと良い感じなるだけか、と思ったらそうではない。

この映画にもただの音楽映画ではない隠れたテーマがあるのだ。

 

マーク・ラファロが演じるダンは正真正銘ダメ親父だ。

過去に大物ラッパーを見出した栄光にすがって酒びたりになり家を飛び出し、あげくにクビになる。娘に酒代をせがむ。

肝心の娘は露出した服を着てビッチのような見た目に。。

家庭は崩壊寸前だった。

 

しかし、グレタと出会いダンは少しずつ変わっていく。

酒をやめて家族と向き合うようになっていく。

娘のバイオレットも年上のグレタと親交を深めていくうちに服装や化粧を改善し、父親を尊敬するようになる。

そしてグレタの曲に1曲ギターで参加したことをきっかけに、父と娘は和解する。

娘がこんなに楽しそうにギターを弾くことを知った時のダンの顔は、父親でありながらどこか友達のようでもあった。

 

一見グレタのサクセスストーリーかと思わせたこの映画は、父と娘の絆を描いているのだ。

父と娘がグレタの曲で共演するシーン↓ 

 


Tell Me If You Wanna Go Home (Rooftop Mix)-Keira Knightley (HD)

 

ほんとにいい。。

 

この映画の楽曲はMaroon 5アダム・レヴィーンが楽曲提供をしており、さらにグレタの元彼役として銀幕デビューもしている。

 


Adam Levine - Lost Stars (from Begin Again)

 

なので劇中歌がすべて良い。

それだけも一見の価値のある素晴らしい映画だ。

 

 

 

・SING STREET 未来へのうた  

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ダブリンに住むコナーは、親の失業をきっかけに県立の高校に転入するが、そこでいじめにあう。バラバラになる家族と憂鬱な学校生活に絶望するが、一人のミステリアスな女の子に一目惚れする。女の子と話すきっかけがほしいコナーは、彼女に「バンドをやっているからMVに出てくれ」と嘘をつく。

女の子を振り向かせるためについた嘘を本当にするため、コナーは学校の冴えない生徒を誘いバンドを組む。

 

まず、この映画の素晴らしい点は曲の多様性だろう。

曲を作ることになったコナーは音楽狂いの兄に相談する。

兄は女を振り向かせるためのレコードを聞かせるのだが、その選曲がまたいいのだ。

MotorheadDuran DuranThe JamThe Cureなど、'70〜'80年を代表する伝説的なアーティストが満遍なく物語を味付けする。

コナーはそれを聴き、ポップ、ロック、サイケデリックなど様々なジャンルの楽曲を作る(素人なのにそんな名曲作れるかなんて意見は野暮だ)。

コナーの心情を表したように様々な曲が劇中を彩り、客を飽きさせない。

また、MVやライブパフォーマンスも曲のジャンルや年代に合わせており、まるで音楽カルチャーの教科書のような映画だ。

 


Up by Sing Street

 

最初は冴えない根暗な少年が、音楽を通してどんどんかっこよくなる展開は、お決まりだがやはりいつ見ても胸が熱くなる。

演奏もやたらと上手くなるし。笑

 


Sing Street - Drive It Like You Stole It (with Lyrics)

 

この曲はロカビリー/ロックンロールを意識したような曲だ。

このシーンは主人公コナーの心境や望みがすべて詰まっていてかっこいいシーンのはずなのに、初めて見たとき涙が止まらなくなってしまった。

 

さて、ではこの映画の隠れたテーマはなんだろうか。

 

この映画は、一見すると女の子を振り向かせるためにバンドを始める青春映画なのだが、本当は違う。

この映画は「兄弟の絆」の映画だ。

 

主人公のコナーが悩み、道を見失いそうにすると必ず兄のブレンダンが登場する。

そしてその時コナーに一番必要な言葉と音楽を渡すのだ。

音楽や女に対して多くを知っているブレンダンをコナーは慕い尊敬し、ブレンダンもまた6歳離れた弟を慕い、時に横暴になりながらも応援する。

 

すべての兄弟が憧れる兄弟像がこの作品には描かれているのだ。

 

さらに隠されたテーマはもう一つある。

 

この映画はジョン・カーニーの音楽映画3部作の傑作と言える。

というのも、この映画にはジョン・カーニーが映画にしたかったことのすべてが描かれているからだ。 

主人公のコナーはバンドを組み作曲をし、自分らでMVを制作する。

先述した通り、カーニーも青年時代バンドを組み自らMVを制作していた。

 

コナーはダブリンという土地に嫌気がさし、ロンドンに行くことを夢見る。

『ONCE』でも描かれた舞台が再び登場したことは偶然ではないだろう。

 そう、カーニーは子供時代をダブリンで過ごしている。

 

つまりこの映画はジョン・カーニーの半自伝的ともいえるのだ。

 

『ONCE』で描ききれなかった物語を『BEGIN AGAIN』で描き、そしてそれまで培った音楽への愛とダブリンという故郷を題材にした映画が『SING STREET』なのだ。 

 

 

 

今回紹介した三人の主人公達は大成しない。たくさんの人の前でライブはしなければ、CDがミリオンヒットになったりもしない。

 

しかし、3人は多くの可能性に溢れながら次の舞台へと進んでいく。

視聴者達は、彼らのその後を想像することができるのだ。

それこそがカーニーが描こうとした音楽映画なのではないだろうか。

 

彼らはその後、音楽をやめてしまうかもしれない。

結婚しそれなりの幸せを掴むこともあるだろう。

または大成し大物歌手になるかもしれない。

 

その可能性の暗示こそが、ジョン・カーニーが導き出した、音楽への愛の答えなのではないだろうか。と、私は思うのだ。 

 

 

(文:ゴセキユウタ)

 

リベラルアメリカの描く愛すべき保守と個人的なロカビリー

アメリカは多元的なイメージと一元的なイメージが交錯している。黒人、ヒスパニック、LGBTの権利向上や差別に対して敏感な側面もあるかと思えば、街中にアメリカ国旗がはためき、「Make America Great Again」というトランプ大統領の力強いスローガンに賛同する人が大多数いる。差別を許さないというマスメディアや芸能からのコマーシャナルすら感じるお題目と同時に、南部では根強く有色人種に対する差別が酷い。リベラルがアカデミズムで跋扈してると同時に保守的な人間も段違いに多い。多元的であるという事実と同時にアメリカのイメージはむしろ対外的には一元的。民主主義の保護者として世界の警察、カルチャーを牛耳る良質なエンターテインメントの数々、強いリーダーシップを誇る大統領の演説…。その一元的イメージが親米も反米を生む。内実は60年代以降多元的になり、最早分断すら生み出しているのに…である。

 

ジョン・ウォーターズという映画監督がいる。アウトロー達を主題にした作品を数多く撮っているアンダーグラウンドの帝王である。

 

猥雑で下品な事に焦点を当てたり、良識派を挑発するかのような作品群から悪趣味の映画監督とも称されるが、彼の根底にあるのは古き良きアメリカンカルチャーに対する根強い愛である。

 

彼の作品は当人のリベラルな気質とは別に白人が主役で街は先述した一元的なアメリカイメージの様相だ。普通のアメリカに変な連中がいて、暴れまくる。良識を壊しまくる。

 

彼が世にその名を轟かせたのは「ピンク・フラミンゴ」という作品だ。巨漢のドラァグ・クイーンが主人公で、下品かつクレイジーなアブノーマルたちが騒ぎを繰り広げるお下劣狂想曲とでもいうこの作品は、アンダーグラウンドのステージを一つ上げた。

 

その一方で、ミュージカルにもなった比較的穏便なストーリー展開の「ヘアスプレー」や「クライ・ベイビー」を出して大衆路線に舵を切ったかと思いきや、あからさまにサイコパスで悪趣味な「シリアル・ママ」や「セシル・B/ザ・シネマ・ウォーズ」いった作品群を出すという天邪鬼っぷりは流石としか言いようがない。

 

映画に出したいのは良識ない奴と良識ある奴の両方であり、白人の住む平穏な郊外にアウトローがいるのが愉快そのものであり、それにより引き起こされる狂想の中で本当に悲しいこと、本当に素晴らしい人をサラッと描いていきながらも最後のオチは悪趣味に仕上げる。その手法はジョン・ウォーターズ流とでもいうべき独特で真似できない(真似したくない)独自技術になっている。

 

70年代以降の規制が緩和されて映画に過激表現の波が押し寄せそのビッグウェーブに乗れた感も些か否定は出来ないのだが、永遠の反逆者ではなく永遠の天邪鬼悪戯っ子とでもいうべきジョン・ウォーターズ監督の作品を是非皆さまにも観てもらいたい。ただ、R指定作品や前述の通り過激な表現もあり最初の作品は穏便なのを選んで欲しい感があるので個人的なおススメを最後に…。

 

「Cry Baby」

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50年代アメリカ。不良少年のクライベイビーはええとこのお嬢様であるアリソンに一目惚れ。また、温室育ちのアリソンも今までに感じたことのない魅力を持つクライベイビーにゾッコン。しかし、周りの大人達は不良とお嬢様の恋愛に大反対で…というのが大まかな流れ。ここでもアウトローVS保守的な郊外という対立構造が描かれている。全編にロックンロールやロカビリーが流れるミュージカル仕立てでもあり、劇中のハイライトで流れてくるロカビリーには痺れるの一言である。以下、トレイラーのリンクでその魅力の一端を感じて欲しい。

  

  

 

 

 

(文:ジョルノ・ジャズ・卓也)

 

ジャンプの伝統と改革を成し遂げた優秀な息子へ一時の別れを… 〜「鬼滅の刃」最終回に寄せて〜

先日、週刊少年ジャンプ令和2年24号に於いて人気漫画の「鬼滅の刃」が本編最終回を迎えた。昨年のアニメ化以降、漫画史に残る驚異的なペースで売り上げを伸ばし社会現象にまでなった「鬼滅の刃」は、ひとまず有終の美を飾った。

 

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その人気の理由は多くの有識者が語っており、敢えて作者がその薄い見識を晒す事はないとも思うのだが、よろしければ以前私が個人のnoteに書いたこの記事も参考にして頂ければと思う。

 


勧善懲悪的なストーリー展開でありながらも、その主人公の優しい憧憬が敵に向けられる時(これは作者である吾峠呼世晴氏の見ている、感じている目線でもある)にただのスカッとするお話ではなく鬼という存在に対する意味とそしてそれでも罰せられねばならないという強い意志を読者に提示している。また、戦いにより味方も容赦なく敵により破れて死んでしまったり(そもそも第一話から主人公と妹以外の家族は残酷な目にあっている)非常にジャンプの王道展開でありながらも作者個人の考えが色濃く反映されており、生と死が同価値で生きる者と死する者が全く容赦なく分けられながらも死者の意志は次世代に継がれていく。甘く期待ある余談を許さない過去回想、ラスボスの全く同情する予知のない言動等々…それを貫いた結果が浅く引き伸ばされたり、安易なテコ入れがされることなく名作漫画の中でも屈指の綺麗なラストを飾ることは出来たのは作者の力量、時代性、そして編集の好判断だろう。

 

NARUTO」「こち亀」「BLEACH」といった前の時代を引っぱった作品達が10年代の初め〜半ばから次々と連載を終了していき、次世代の不安が連載陣に薄らと蔓延する中で2016年から連載をスタートした「鬼滅の刃」。爆発的に人気に火がついたのはここ一年ではあるが、いわゆるジャンプを卒業した世代の「ジャンプ漫画なんて今は腐女子向けばっかりw」という偏見ある層が読んでも「面白い」と思える作品は一貫して生まれている。「ぼくたちは勉強ができない」(これは主人公の好感度を高めることによりヘイトを偏り溜めがちなラブコメの世界に於いてリスク分散をするという近年ラブコメ手法をジャンプで成功させた)や「呪術廻戦」(BLEACHフォロワーでありながらもダークさやショッキングホラーのような風味に見事な伏線を張っていく読書感はジャンプではかなり斬新)に「アクタージュ」(女性主人公で演劇の世界というおおよそ少年漫画で扱うには持て余す世界を見事にライバルキャラを立たせたり主人公の魅力で成立させたジャンプの記念碑になりうる作品)など。今一番勢いがあるのは「チェンソーマン」(映画的な視点のコマ割り。ダークでホラーな世界、主人公が明るいバカだが非常に好感が持て暗くなりすぎなく、笑えるシーンもあるゴアな正統少年漫画といえる王道を歩む異端児)だろう。

 

勿論、「ワンピース」という安定の人気作がしっかりと屋台骨を支えている前提があるにせよ、良い作品ならば意外と一見少年漫画なのか?という作品でも紙面に馴染んでいくとわかってきたのがここ数年の傾向ではないだろうか。その嚆矢が「鬼滅の刃」だと思っている。私が鬼滅を読んだ時に感じたのは作家の独自性が強くストーリーや設定もすごく好みだが、ジャンプの中では隠れた名作として終わりそうだな…という感想だった。メインストリームは「ヒロアカ」や「ハイキュー!」みたいな作品が歩むのだろうな…と。だからこそせめて、漫画オタクこそがしっかり推していくか…という気持ちでいたら、結果は予想を遥かに超えるメガヒットである。アニメというブーストはあるにせよ、「NARUTO」や「BLEACH」でジャンプを知った世代の私がジャンプでは微妙かな?と感じた作品がトップに躍り出るという世代交代をまざまざと見せつけられた形となった。「鬼滅の刃」からジャンプを読み始めた子供たちはそれを基本形にジャンプらしさを認識するだろうし、「呪術」や「アクタージュ」がジャンプに連載されてた事も覚えるだろう。つまり、ジャンプらしさが今、「鬼滅の刃」により一つまた更新され、その更新された旗印の元に新たな才能が集い切磋琢磨しているのが現状なのである。

 

漫画界に間違いなく偉大な功績を打ち立てた「鬼滅の刃」は、その優れた作品性によりジャンプらしさの意識をまた変えた。「北斗の拳」「ドラゴンボール」「スラムダンク」「ワンピース」「NARUTO」「BLEACH」といったジャンプらしさの中に新たな時代の価値観として肩を並べたのは間違いない。王道の殿堂にも籍を置きながらもジャンプの今を改革した偉大なる少年漫画「鬼滅の刃」にしばしの別れを…そして、新たな未来のジャンプの柱を期待しつつ私は単行本を読み返すのだった…。

 

追記:劇場版楽しみですね。僕は煉獄さんが大好きなんです。


 

(文:ジョルノ・ジャズ・卓也)

 

彼にしか見えない世界。彼にしか辿り着けない世界。〜初代高橋竹山のスリーストリングス〜

私が初代高橋竹山(たかはしちくざん。以降、高橋竹山と表記するが全て初代のことを指すのでご注意)を知ったのはいつの頃だったか…大学生より後。社会人となってからだったと思う。

 

そもそも津軽三味線という日本の伝統楽器と演奏は、近年では吉田兄弟などの活躍により演奏手は途切れずになんとか来ているが、いわゆる現代のネコも杓子もミュージシャン扱いの世の中では、プレイヤーというよりは伝統芸能の担い手という役割を知らず知らずのうちに社会から認識と要請をされているきらいがある。

 

しかし、本来の津軽三味線はボサマと呼ばれた視覚障害者の技能職であり、見えない世界の人が見える世界の人と繋がる社会との接点や参画という一面もあったのではないかと個人的には邪推している。

 

ハードで辛いハンデを背負いながらも頑張っているね…などというのは我々健常者から見たある種の一方的な憐みであり、いつ自分たちもそちら側に転ぶかわからない恐怖を紛らます呪文なのかもしれない。しかし、圧倒的な存在の前では前提やエクスキューズなどは吹き飛ぶ。例えば、アメリカでは盲目ながらも世界中のミュージシャンに多大な影響を与えたレイ・チャールズスティービー・ワンダーがいるし、日本ではピアニストの辻井伸行さんがいらっしゃる。彼らは第一印象に盲目というのが頭にあっても音楽に触れた瞬間にそんなものは吹き飛んでしまう。ミュージシャンシップのパワーが溢れている。私が紹介する高橋竹山もいわばそういうタイプのミュージシャンである。

 

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高橋竹山青森県の生まれで幼い頃に病によりその視力を殆ど失い、食べていく道としてボサマとなった。その類稀な才能は戦後に本格的に認知されていき、LPレコードの発売や若者向けライブハウスでの独演などを行い一地方芸能であった津軽三味線をミュージックジャンルに押し上げた。とにかく彼の凄さは一曲聴いてもらえばわかるだろう。

 

 

彼の三味線は派手さはなく淡々と始まりその中から音のストーリーが作られていく。スリーストリングスから聴き手の脳内に勝手に情景が生まれていくかのような錯覚。ストーリーには必ず起承転結が必要であり音楽をストーリーだと考えるならば、高橋竹山の歌や他楽器による補強がない中それを成し遂げようとするスタイルは正に蛮勇とも無謀ともいえるかもしれないが、その技量と戦前生まれで盲目の中色々苦労を重ねた経験の数々がそれを可能にする。速弾きならおそらく他の弾き手で良いのがいるだろうし、現代でいうリズム感のある弾き手も津軽にはごまんといただろう。しかし、彼の聴き手が何に感動し、何を退屈に感じるかをまさに超感覚とでもいうべき力で理解し、その上で自分のパーソナルさを弦に落とし込み聴衆を世界に引きずりこむ…脱帽である。

 

芸能とは自己満足でも大衆に媚びることでもやりたいことをやれば良いわけでもない。全てをやりきり、その上で食べていくのだ。高橋竹山の演奏からはそれが力強く伝わってくる。厳しい気候、厳しい環境、厳しい芸能。想像のできない世界からやってきたそのボサマは津軽三味線を広めることが使命だったかのように後世に技能と超えられない圧倒的表現を残して世を去った。

 

伝統芸能と侮るなかれ。侮る人間ほど高橋竹山のそのプレイヤーとしての圧倒的な技量と表現に魅了されてしまう。あなたが素晴らしいミュージシャンを愛する人ならば是非一度は聴いていただきたい偉人である。

 

最後にオススメの三曲を貼ってこの記事を終わりとしたい。

 

 


 


 

(文:ジョルノ・ジャズ・卓也)

 

「いま」の音楽としてSusumu Yokotaを捉えてみると

 

Susumu Yokota。日本語表記では横田進。今年に入ってからずっと彼の音楽が気になる。彼は既に亡くなっており、その膨大な作品群も時代の波の中にほとんど埋もれかけているように思える。そんなYokotaの作品がいま、気になってしょうがない。そこになにかがあるような気がするのだ。

 

70以上の作品がある。変名の作品も多いし(PRISM, ringo, STEVIAなど)、入手困難・聴取困難なものも多い。更にその時々でまったく違う音楽スタイルに移り変わる傾向にある。彼のすべてを理解することは不可能なのかもしれない。Susumu Yokotaというひとりの人物自体が、私たちに遺されたひとつの難解な問いとも言えるだろう。そのミステリアスさが気になり、何度も聴いてしまう。

自分もYokotaの作品をすべてくまなく聴けている訳ではない。正直肌に合わない作品もあったし(初期のアシッド・テクノ色の強いアルバムはサウンドが古びている気がしてあまり面白くなかった)、一作一作があまりに謎めいた濃密な内容なので次々にどんどん聴けないというのもある。ただ、そんな中で特にどうにも引っかかったSusumu Yokota作品が、三作ある。

 

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一つめが1999年発表の『sakura』。彼の作品の中で最も有名なものであり、キャリアを見渡してもある種孤立した立ち位置の作品だ(すべての作品がそれぞれに孤立し、隔絶しているとも言えると思う)。フェイザーがかったエレピのサイケデリックな音色やサンプリング、チープなシンセサイザーのレイヤーを基本的な土台とした、アンビエントというにはより肉体的な、しかしダンスミュージックというにはあまりに融解し切った音楽がそこにはある。音質的な解像度はあまり高くないが、それが逆に雰囲気を醸し出している。ヴィンセント・ギャロバッファロー'66」は画質の解像度の低さを効果的に利用して固有の映像的美学を作り上げた好例だが、『sakura』もそれに通ずるような、ローファイさが生み出し得る美的感覚を研ぎ澄ませた作品だ。しかしサウンドはローファイでもローテクではない。その道を極めた音楽家にしか出来ない絶妙な音の抜き差し。コード感の究極的な洗練。一曲選ぶとするなら「Tobiume」。Yokotaの楽曲の中でも一際センチメンタルで切ないメロディーが反復し、響き合う。聴くたびに感動が生まれる。どこか淡白さのある、感情のこもり過ぎていないシンセサイザーが、切ないメロディーとうまく合致している。近年のYumi ZoumaやMen I Trustなどの、いわゆるネオソウル系の曲などを聴いても思うが、強い切なさ、強い悲しさは抑制を効かせることで引き立つものだ。抑制的な音楽という面で、バッチリ現代にも繋がる一作だと思う。

 


Susumu Yokota - Tobiume

 

 

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二つめは2002年発表の『sound of sky』。『sakura』とは打って変わってダンスビートに溢れたハウス・アルバム。ここでもエレピの音色が前面に出されており、ダンスビートといえども猛々しさやテンションを沸騰させるような劇薬感はなく、全体として落ち着いた雰囲気だ。硬質な、ゴツゴツした手触りのビートと、ソフトな鍵盤類の対比からなるコントラストのきめ細やかさが素敵。デザイナーとして働いていた経験がある方だからだろうか、音の使い方が視覚的な気がする。ひとつひとつの音を、色や風景画として捉え、並べているような。クラブで即効性を持って機能するようなダンスミュージックというよりは、ダンスという行為を通じて複雑な精神分析を行っているようなこの内向的な感覚がYokotaの強みだろう。誰でも提示できるセンスではない。特に最終曲「Sky And Diamond」は、夜の歓楽街の雑然とした賑々しさの中でふと誰かが零した溜め息のように光る、印象的な一曲だ。

 


Sky and Diamond - Susumu Yokota

 

 

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そして三つめは、2007年発表『Love or Die』。三拍子という縛りを設けて作られたこのアルバムにおいてYokotaはその複雑な思想性、死生に対する観念を大きく示した。一曲一曲に物々しい、暗示的なタイトルがあり、(たとえば11曲目のタイトルは「邪悪な嘘から偶然に生まれた聖なる儀式」という意なのだそうだ)時にジョイ・ディヴィジョンのような憂鬱で削ぎ落とされたギターを鳴らしながら、時にやはりエレピのサイケデリックな音色を伴いながら、精神的な深淵への潜行が行われていく。マイナー調のメロディーが全体を包み込み、濃い影を落とす。その音楽に入り込んでいけば、ループするひとつひとつのフレーズが、まるで輪廻を描いているように感じられても来る。淡い色合いで統一されたサウンドスケープは聴けば聴くほどに開かれていく。こちらが求めれば求めるほどに、滋味が滲んでくる。

そこにはハウスもある。アンビエントもある。アシッドもある。クラシックの香りもある。あらゆる音楽が意識・無意識の境の中で混ざり合い、混交に混交が重なり、具現化された「愛するか、死か」という謎に満ちた問い。Yokotaはなにを思い、このアルバムを作ったのか。その途方も無い思索の道を音楽と共に想像することに意義があるのだろう。人間が持ち得るイマジネーションの扉を容赦なく開く快い薫風のような、しかし表情はどこまでも険しい、儚さに満ちたワルツが作り上げる透徹した結晶。

終盤の、10、11、12曲目。この三曲の流れは特に濃く、あらゆる音楽的境界線が消滅した、完全な孤絶を伴った巨視的な世界が完成している。

 


Susumu Yokota - The Now Forgotten Gods of Rocky Mountain Residing in the Back of The North Woods

 

Susumu Yokotaを聴きたい、と思った時、手が伸びるのは大体この三作だ。そこには秘密がある。謎がある。だからこそ作品が永遠性を持ち得ているのだと思う。彼のこの三作はいずれも古い作品だが、過去と現在の境目をナチュラルにほぐし、その音楽からありありとわかる、厳然として強い表現欲求によって「いま」に生きる私たちを繋ぎ止めるような空気の漂いがある。

Susumu Yokotaの作品をいまなぜ聴きたいと思うのか、と問われれば、それが現代に失われた純粋芸術だからだ、と答える。いまは芸術の本質的部分、表現したいという欲望に真っすぐ向かうことのできる世界ではない。あらゆる責任を背負うさまを見せ、戦略性を身につけ、政治的・理論的正しさを備え、アピールしていなければ「表現すること」のスタートラインにすら立つことを許されないような、あまりに相互監視的で、美しさ・整合性を求めるあまりに混濁し過ぎている「いま」現在の世界において、Susumu Yokotaの音楽はどこまでも切なくてたまらない。鳴らしたい音を、繰り返し醸成された自らの思想に基づいて鳴らす。そんなふうに表現欲求だけを示しながらアーティストたる人間が生きていくことは難しいのが「いま」だ。Susumu Yokotaの音楽が身に迫る。失われているものがそこにあるのだ。しかし昔は良かった的なノスタルジアにならず、現代性を持って音が聴こえてくる。そこにYokota自身の広大な思考、逡巡の集積があるからだろう。苦悩を内在させている者こそが濃い音楽体験を可能にするのだと、Susumu Yokotaの音楽を聴くと痛感する。

Susumu Yokotaの音楽は忘却されてはならない。そこにある精神性、表現欲求、苦悩の濃密さが再検証され、世界に今一度受け入れられて、参考にされて欲しいと願う。純粋な表現への欲望を大切にする心が、世界の見晴らしを良い方向へ変えていく。時を越えてSusumu Yokotaが「いま」を生きる私たちに伝えるのは、その歴然とした真実なのではないか。

 

 

(文:Ohno Tamio)

 

イアン・マッケイが起こした革命。ディスコードレコードとストレートエッジ

 

今回もPUNKについて書かせてもらおうと思う。

Ian MacKaye(イアン・マッケイ)という人物を知っているだろうか。

彼は高校生ながらに音楽レーベル「Dischord Records」を立ち上げ、80年代のハードコアシーンの先頭に立った男である。

今回はイアン・マッケイと彼が起こしたムーブメントについて書こうと思う。

 

Tales of Perversion

 

 

 

・音楽活動

 

彼は1972年に初めて学校の仲間とバンドを組み、そこから
The Teen Idles、Minor Threat、FUGAZIなど数多くのバンドを結成する。

(厳密には他にも多くのバンドに携わっているが今回は特出するバンドについて紹介する)

 


The Teen Idles(ティーン・アイドルズ )

 

1979年結成
1980年解散

活動期間は短いが彼らの活動が後述するDischord Recordsというレーベルを作った。

ジャンルとしてはこの頃はまだガレージパンク色が強い。

トランジスタアンプを無理やり歪ませたようなギターと疾走ドラム、歌というより雄叫びに近いのだが要所でテンポを下げたり気だるそうに歌ったりとユーモアさもある。

『Minor Disturbance Ep』というミニアルバムを出しており、何度かリイシューもされている。

Dischordのルーツとして1度は聴いてほしい1枚だ。

ほとんどの曲が1曲あたり1分前後なので1枚通しても10分以内に終わる。

 


The Teen Idles - Minor Disturbance [Full Album]

 

 

MINOR THREAT(マイナースレット)

 

80’sハードコアを語る上では欠かせないバンドの一つだろう。

1980年に結成
1983年に解散(今知ったがその間に一度解散している。)

このトランジスタアンプをファズで歪ませたサウンドはUSハードコアの代名詞ともいえるだろう。

彼らのサウンドや曲調はその後の音楽にも強い影響を与えており、ここからエモ、メロコアなどパンクがさらに枝別れをする分岐点としてよくあげられる。

3枚のEPをリリースしているが、現在はそれらすべてが収録されたコンプリートベストがあるのでそれを聴けばマイナースレットを全曲網羅できる。

個人的にPUNK史を語る上では欠かせないアルバムだ。


Minor Threat - Complete Discography Full Album (1989)

 

 

Fugazi(フガジ)

 

1987年結成。

ジャンルとしては80年代ハードコアに位置付けされるが、その活動や音楽スタイルは少し風変わりでポストロックやエモ、アバンギャルドなど様々な捉え方をされる。言ってしまえばFugaziというジャンルが確立していたのだろう。(イアン本人は当時新しかった「エモ」というジャンルに分類されることを嫌がっていた)

従来のパンクバンドと違いモッシュ行為などをしないように諌め、ライブ前に観客にあらかじめ歌詞カードを配布し曲をしっかり聴いてもらうように努めていた。

モッシュしたい客だけフロアに残し、残りの客をステージにあげるなど前衛的なライブ活動をいくつも行なっていた。

またイアンの意向によりライブのチケット代は子供なども気軽に来れるように絶対に6ドル以下にするなど音楽シーンを守り、後世につなげるための活動に注力したバンドとしても有名である。

 

オススメのアルバムは2枚ある。

1枚目は『Red Medicine』


Fugazi - Red Medicine [1995, FULL ALBUM]

こちらはマイナースレットのようなハードコア色が強い。

サウンドはさらに極悪になり、歌は詩的に、メロディックになっている。

2曲目のBed for the Scrapingは後世に残したい1曲と言っても良いだろう。

かっこいい。

 

2枚目は『The Argument』


Fugazi - The Argument [2001, FULL ALBUM]

こちらは『Red Medicine』と比べるとかなりダウナーでパンクというよりポストロックなどに近い気がする。

このアルバムがスタジオアルバムとしては最新のアルバムであり、Fugaziの後期最高傑作である。ハードコアやパンクがあまり好きじゃなくてもこのアルバムはかっこいいと思うのではないだろうか。

歌詞もかなり詩的でぜひ歌詞を見ながら聴いてほしい。

 

 

 

Dischord Records

 

イアンはティーンアイドルズの活動で得た収益を使って自身のレーベルを作った。

それがDischord Records(ディスコード・レコーズ)である。

スタンスとしては仲間内でのレコード制作、流通を手がける地元密着型レーベルであり、自身が良いと思ったバンドしかリリースしないのだが、それはある意味インディーズレーベルの理想であった。

後にディスコードはハードコアシーンに大きな影響を与えるバンドを多く輩出し、ワシントンD.Cにディスコードありと世界中に知らしめたのである。

その影響は発足され40年経った今でも根付いており、ディスコードのバンドは多くのアーティストに影響を与えている。

 

ディスコードのアーティストで何を聴いて良いかわからないのであれば、このアルバムがオススメである。
『20 YEARS OF DISCHORD BOX』
このオムニバスは2000年までのディスコードのバンドが大体網羅されている。

Amazon | 20 Years of Dischord | Various Artists | 輸入盤 | 音楽 

その中でもオススメのディスコードのバンドを簡単に紹介する。

(脱線してしまうので細かい説明は省略)

 

Void


Faith Void Split (1982) (full album)


Embrace


Embrace - Embrace LP (1987) [FULL ALBUM]


Jawbox


Jawbox - Grippe (Dischord Records #052) (1991) (Full Album)

 

この3バンドは1980〜1990年代を代表するディスコード系のバンドだろう。

 

 

 

・Straight Edge

 

イアンの活動はひとつのライフスタイルも生み出すことになる。

それがStraight Edge(ストレートエッジ)である。(SxEと表記されることもある)

ストレートエッジとは音楽文化における思想で、飲酒、喫煙、違法薬物、快楽目的の性行為を戒めることを基本理念とし、それまでのロック音楽の「セックス、ドラッグ、ロックンロール」という概念に対しての反抗を意味している。


その起源はイアン・マッケイの初期のバンドThe Teen Idlesの活動まで遡る。

 

当時高校生だった彼らはアメリカツアー中、未成年という理由で数々のクラブなどで出演を断られていた。
そこで彼らは店のオーナーを説得し自らの手の甲に×印を描き店員が未成年にアルコール類を出さないようにするという条件で活動を許可される。それが西海岸の多くのクラブに広まり、未成年は手の甲に×印を描くことでクラブへの出入りを許可されるようになったのだ。

この印はThe Teen Idlesが出した唯一のEPのジャケとなり、いつしか手の甲の×印は禁欲のシンポルとなった。

The Teen Idles - The Teen Idles (2006, CDr) | Discogs
その後イアンはマイナースレットの楽曲「Straight Edge」でDON'T SMOKE, DON'T DRINK, DON'T FUCKと歌い「喫煙をしない」「ドラッグをしない」「酒を飲まない」「快楽目的のセックスをしない」という思想がストレートエッジ思想として定着していったのであった。

 

しかしその思想は徐々に膨れ上がり、一部のファンの中で宗教的な捉えられ方をされてしまう。

主にワシントンやボストンのクラブなどでは酒を飲んでいる客に殴りかかったり、タバコを吸っている人に水をかけたりと過激な人間が増え暴動に繋がってしまった。

イアンの考えとしてはストレートエッジは個人の意識の持ち方であり強要するようなものではなく宗教的な禁欲思想には共感しないと発言している。

 

ストレートエッジ思考は現代でも多くの標榜者がおり、その層はハードコアや音楽アーティストの幅を超え多くの人に共感されている。(現在では禁欲からさらに進み菜食主義なども取り入れられることが多い)

 

 

 

1980年代はPUNKというジャンルにとって大きな分岐点と言われている。

これまで、あくまでアンダーグラウンドだったPUNKが80年から90年にかけてエモやポップパンク、ポストパンクなど様々な形に変化し、PUNKというジャンルは世界で認知されメジャー化していった。

そんな過渡期の中、

The Teen Idles、Minor Threat、Fugazi

それぞれのバンドは常にシーンの先頭に立っていた。

 

Dischord Records

ワシントンD.Cから多くのバンドを輩出し、USハードコアの中枢を作り上げた。

 

Straight Edge

そしてその思想は音楽シーンだけではなく多くの人々の思想や概念の標榜となった。

 

 

それが、イアン・マッケイが起こした革命 なのである。

 

 

 (文:ゴセキユウタ)