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リベラルアメリカの描く愛すべき保守と個人的なロカビリー

アメリカは多元的なイメージと一元的なイメージが交錯している。黒人、ヒスパニック、LGBTの権利向上や差別に対して敏感な側面もあるかと思えば、街中にアメリカ国旗がはためき、「Make America Great Again」というトランプ大統領の力強いスローガンに賛同する人が大多数いる。差別を許さないというマスメディアや芸能からのコマーシャナルすら感じるお題目と同時に、南部では根強く有色人種に対する差別が酷い。リベラルがアカデミズムで跋扈してると同時に保守的な人間も段違いに多い。多元的であるという事実と同時にアメリカのイメージはむしろ対外的には一元的。民主主義の保護者として世界の警察、カルチャーを牛耳る良質なエンターテインメントの数々、強いリーダーシップを誇る大統領の演説…。その一元的イメージが親米も反米を生む。内実は60年代以降多元的になり、最早分断すら生み出しているのに…である。

 

ジョン・ウォーターズという映画監督がいる。アウトロー達を主題にした作品を数多く撮っているアンダーグラウンドの帝王である。

 

猥雑で下品な事に焦点を当てたり、良識派を挑発するかのような作品群から悪趣味の映画監督とも称されるが、彼の根底にあるのは古き良きアメリカンカルチャーに対する根強い愛である。

 

彼の作品は当人のリベラルな気質とは別に白人が主役で街は先述した一元的なアメリカイメージの様相だ。普通のアメリカに変な連中がいて、暴れまくる。良識を壊しまくる。

 

彼が世にその名を轟かせたのは「ピンク・フラミンゴ」という作品だ。巨漢のドラァグ・クイーンが主人公で、下品かつクレイジーなアブノーマルたちが騒ぎを繰り広げるお下劣狂想曲とでもいうこの作品は、アンダーグラウンドのステージを一つ上げた。

 

その一方で、ミュージカルにもなった比較的穏便なストーリー展開の「ヘアスプレー」や「クライ・ベイビー」を出して大衆路線に舵を切ったかと思いきや、あからさまにサイコパスで悪趣味な「シリアル・ママ」や「セシル・B/ザ・シネマ・ウォーズ」いった作品群を出すという天邪鬼っぷりは流石としか言いようがない。

 

映画に出したいのは良識ない奴と良識ある奴の両方であり、白人の住む平穏な郊外にアウトローがいるのが愉快そのものであり、それにより引き起こされる狂想の中で本当に悲しいこと、本当に素晴らしい人をサラッと描いていきながらも最後のオチは悪趣味に仕上げる。その手法はジョン・ウォーターズ流とでもいうべき独特で真似できない(真似したくない)独自技術になっている。

 

70年代以降の規制が緩和されて映画に過激表現の波が押し寄せそのビッグウェーブに乗れた感も些か否定は出来ないのだが、永遠の反逆者ではなく永遠の天邪鬼悪戯っ子とでもいうべきジョン・ウォーターズ監督の作品を是非皆さまにも観てもらいたい。ただ、R指定作品や前述の通り過激な表現もあり最初の作品は穏便なのを選んで欲しい感があるので個人的なおススメを最後に…。

 

「Cry Baby」

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50年代アメリカ。不良少年のクライベイビーはええとこのお嬢様であるアリソンに一目惚れ。また、温室育ちのアリソンも今までに感じたことのない魅力を持つクライベイビーにゾッコン。しかし、周りの大人達は不良とお嬢様の恋愛に大反対で…というのが大まかな流れ。ここでもアウトローVS保守的な郊外という対立構造が描かれている。全編にロックンロールやロカビリーが流れるミュージカル仕立てでもあり、劇中のハイライトで流れてくるロカビリーには痺れるの一言である。以下、トレイラーのリンクでその魅力の一端を感じて欲しい。

  

  

 

 

 

(文:ジョルノ・ジャズ・卓也)

 

ジャンプの伝統と改革を成し遂げた優秀な息子へ一時の別れを… 〜「鬼滅の刃」最終回に寄せて〜

先日、週刊少年ジャンプ令和2年24号に於いて人気漫画の「鬼滅の刃」が本編最終回を迎えた。昨年のアニメ化以降、漫画史に残る驚異的なペースで売り上げを伸ばし社会現象にまでなった「鬼滅の刃」は、ひとまず有終の美を飾った。

 

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その人気の理由は多くの有識者が語っており、敢えて作者がその薄い見識を晒す事はないとも思うのだが、よろしければ以前私が個人のnoteに書いたこの記事も参考にして頂ければと思う。

 


勧善懲悪的なストーリー展開でありながらも、その主人公の優しい憧憬が敵に向けられる時(これは作者である吾峠呼世晴氏の見ている、感じている目線でもある)にただのスカッとするお話ではなく鬼という存在に対する意味とそしてそれでも罰せられねばならないという強い意志を読者に提示している。また、戦いにより味方も容赦なく敵により破れて死んでしまったり(そもそも第一話から主人公と妹以外の家族は残酷な目にあっている)非常にジャンプの王道展開でありながらも作者個人の考えが色濃く反映されており、生と死が同価値で生きる者と死する者が全く容赦なく分けられながらも死者の意志は次世代に継がれていく。甘く期待ある余談を許さない過去回想、ラスボスの全く同情する予知のない言動等々…それを貫いた結果が浅く引き伸ばされたり、安易なテコ入れがされることなく名作漫画の中でも屈指の綺麗なラストを飾ることは出来たのは作者の力量、時代性、そして編集の好判断だろう。

 

NARUTO」「こち亀」「BLEACH」といった前の時代を引っぱった作品達が10年代の初め〜半ばから次々と連載を終了していき、次世代の不安が連載陣に薄らと蔓延する中で2016年から連載をスタートした「鬼滅の刃」。爆発的に人気に火がついたのはここ一年ではあるが、いわゆるジャンプを卒業した世代の「ジャンプ漫画なんて今は腐女子向けばっかりw」という偏見ある層が読んでも「面白い」と思える作品は一貫して生まれている。「ぼくたちは勉強ができない」(これは主人公の好感度を高めることによりヘイトを偏り溜めがちなラブコメの世界に於いてリスク分散をするという近年ラブコメ手法をジャンプで成功させた)や「呪術廻戦」(BLEACHフォロワーでありながらもダークさやショッキングホラーのような風味に見事な伏線を張っていく読書感はジャンプではかなり斬新)に「アクタージュ」(女性主人公で演劇の世界というおおよそ少年漫画で扱うには持て余す世界を見事にライバルキャラを立たせたり主人公の魅力で成立させたジャンプの記念碑になりうる作品)など。今一番勢いがあるのは「チェンソーマン」(映画的な視点のコマ割り。ダークでホラーな世界、主人公が明るいバカだが非常に好感が持て暗くなりすぎなく、笑えるシーンもあるゴアな正統少年漫画といえる王道を歩む異端児)だろう。

 

勿論、「ワンピース」という安定の人気作がしっかりと屋台骨を支えている前提があるにせよ、良い作品ならば意外と一見少年漫画なのか?という作品でも紙面に馴染んでいくとわかってきたのがここ数年の傾向ではないだろうか。その嚆矢が「鬼滅の刃」だと思っている。私が鬼滅を読んだ時に感じたのは作家の独自性が強くストーリーや設定もすごく好みだが、ジャンプの中では隠れた名作として終わりそうだな…という感想だった。メインストリームは「ヒロアカ」や「ハイキュー!」みたいな作品が歩むのだろうな…と。だからこそせめて、漫画オタクこそがしっかり推していくか…という気持ちでいたら、結果は予想を遥かに超えるメガヒットである。アニメというブーストはあるにせよ、「NARUTO」や「BLEACH」でジャンプを知った世代の私がジャンプでは微妙かな?と感じた作品がトップに躍り出るという世代交代をまざまざと見せつけられた形となった。「鬼滅の刃」からジャンプを読み始めた子供たちはそれを基本形にジャンプらしさを認識するだろうし、「呪術」や「アクタージュ」がジャンプに連載されてた事も覚えるだろう。つまり、ジャンプらしさが今、「鬼滅の刃」により一つまた更新され、その更新された旗印の元に新たな才能が集い切磋琢磨しているのが現状なのである。

 

漫画界に間違いなく偉大な功績を打ち立てた「鬼滅の刃」は、その優れた作品性によりジャンプらしさの意識をまた変えた。「北斗の拳」「ドラゴンボール」「スラムダンク」「ワンピース」「NARUTO」「BLEACH」といったジャンプらしさの中に新たな時代の価値観として肩を並べたのは間違いない。王道の殿堂にも籍を置きながらもジャンプの今を改革した偉大なる少年漫画「鬼滅の刃」にしばしの別れを…そして、新たな未来のジャンプの柱を期待しつつ私は単行本を読み返すのだった…。

 

追記:劇場版楽しみですね。僕は煉獄さんが大好きなんです。


 

(文:ジョルノ・ジャズ・卓也)

 

彼にしか見えない世界。彼にしか辿り着けない世界。〜初代高橋竹山のスリーストリングス〜

私が初代高橋竹山(たかはしちくざん。以降、高橋竹山と表記するが全て初代のことを指すのでご注意)を知ったのはいつの頃だったか…大学生より後。社会人となってからだったと思う。

 

そもそも津軽三味線という日本の伝統楽器と演奏は、近年では吉田兄弟などの活躍により演奏手は途切れずになんとか来ているが、いわゆる現代のネコも杓子もミュージシャン扱いの世の中では、プレイヤーというよりは伝統芸能の担い手という役割を知らず知らずのうちに社会から認識と要請をされているきらいがある。

 

しかし、本来の津軽三味線はボサマと呼ばれた視覚障害者の技能職であり、見えない世界の人が見える世界の人と繋がる社会との接点や参画という一面もあったのではないかと個人的には邪推している。

 

ハードで辛いハンデを背負いながらも頑張っているね…などというのは我々健常者から見たある種の一方的な憐みであり、いつ自分たちもそちら側に転ぶかわからない恐怖を紛らます呪文なのかもしれない。しかし、圧倒的な存在の前では前提やエクスキューズなどは吹き飛ぶ。例えば、アメリカでは盲目ながらも世界中のミュージシャンに多大な影響を与えたレイ・チャールズスティービー・ワンダーがいるし、日本ではピアニストの辻井伸行さんがいらっしゃる。彼らは第一印象に盲目というのが頭にあっても音楽に触れた瞬間にそんなものは吹き飛んでしまう。ミュージシャンシップのパワーが溢れている。私が紹介する高橋竹山もいわばそういうタイプのミュージシャンである。

 

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高橋竹山青森県の生まれで幼い頃に病によりその視力を殆ど失い、食べていく道としてボサマとなった。その類稀な才能は戦後に本格的に認知されていき、LPレコードの発売や若者向けライブハウスでの独演などを行い一地方芸能であった津軽三味線をミュージックジャンルに押し上げた。とにかく彼の凄さは一曲聴いてもらえばわかるだろう。

 

 

彼の三味線は派手さはなく淡々と始まりその中から音のストーリーが作られていく。スリーストリングスから聴き手の脳内に勝手に情景が生まれていくかのような錯覚。ストーリーには必ず起承転結が必要であり音楽をストーリーだと考えるならば、高橋竹山の歌や他楽器による補強がない中それを成し遂げようとするスタイルは正に蛮勇とも無謀ともいえるかもしれないが、その技量と戦前生まれで盲目の中色々苦労を重ねた経験の数々がそれを可能にする。速弾きならおそらく他の弾き手で良いのがいるだろうし、現代でいうリズム感のある弾き手も津軽にはごまんといただろう。しかし、彼の聴き手が何に感動し、何を退屈に感じるかをまさに超感覚とでもいうべき力で理解し、その上で自分のパーソナルさを弦に落とし込み聴衆を世界に引きずりこむ…脱帽である。

 

芸能とは自己満足でも大衆に媚びることでもやりたいことをやれば良いわけでもない。全てをやりきり、その上で食べていくのだ。高橋竹山の演奏からはそれが力強く伝わってくる。厳しい気候、厳しい環境、厳しい芸能。想像のできない世界からやってきたそのボサマは津軽三味線を広めることが使命だったかのように後世に技能と超えられない圧倒的表現を残して世を去った。

 

伝統芸能と侮るなかれ。侮る人間ほど高橋竹山のそのプレイヤーとしての圧倒的な技量と表現に魅了されてしまう。あなたが素晴らしいミュージシャンを愛する人ならば是非一度は聴いていただきたい偉人である。

 

最後にオススメの三曲を貼ってこの記事を終わりとしたい。

 

 


 


 

(文:ジョルノ・ジャズ・卓也)

 

「いま」の音楽としてSusumu Yokotaを捉えてみると

 

Susumu Yokota。日本語表記では横田進。今年に入ってからずっと彼の音楽が気になる。彼は既に亡くなっており、その膨大な作品群も時代の波の中にほとんど埋もれかけているように思える。そんなYokotaの作品がいま、気になってしょうがない。そこになにかがあるような気がするのだ。

 

70以上の作品がある。変名の作品も多いし(PRISM, ringo, STEVIAなど)、入手困難・聴取困難なものも多い。更にその時々でまったく違う音楽スタイルに移り変わる傾向にある。彼のすべてを理解することは不可能なのかもしれない。Susumu Yokotaというひとりの人物自体が、私たちに遺されたひとつの難解な問いとも言えるだろう。そのミステリアスさが気になり、何度も聴いてしまう。

自分もYokotaの作品をすべてくまなく聴けている訳ではない。正直肌に合わない作品もあったし(初期のアシッド・テクノ色の強いアルバムはサウンドが古びている気がしてあまり面白くなかった)、一作一作があまりに謎めいた濃密な内容なので次々にどんどん聴けないというのもある。ただ、そんな中で特にどうにも引っかかったSusumu Yokota作品が、三作ある。

 

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一つめが1999年発表の『sakura』。彼の作品の中で最も有名なものであり、キャリアを見渡してもある種孤立した立ち位置の作品だ(すべての作品がそれぞれに孤立し、隔絶しているとも言えると思う)。フェイザーがかったエレピのサイケデリックな音色やサンプリング、チープなシンセサイザーのレイヤーを基本的な土台とした、アンビエントというにはより肉体的な、しかしダンスミュージックというにはあまりに融解し切った音楽がそこにはある。音質的な解像度はあまり高くないが、それが逆に雰囲気を醸し出している。ヴィンセント・ギャロバッファロー'66」は画質の解像度の低さを効果的に利用して固有の映像的美学を作り上げた好例だが、『sakura』もそれに通ずるような、ローファイさが生み出し得る美的感覚を研ぎ澄ませた作品だ。しかしサウンドはローファイでもローテクではない。その道を極めた音楽家にしか出来ない絶妙な音の抜き差し。コード感の究極的な洗練。一曲選ぶとするなら「Tobiume」。Yokotaの楽曲の中でも一際センチメンタルで切ないメロディーが反復し、響き合う。聴くたびに感動が生まれる。どこか淡白さのある、感情のこもり過ぎていないシンセサイザーが、切ないメロディーとうまく合致している。近年のYumi ZoumaやMen I Trustなどの、いわゆるネオソウル系の曲などを聴いても思うが、強い切なさ、強い悲しさは抑制を効かせることで引き立つものだ。抑制的な音楽という面で、バッチリ現代にも繋がる一作だと思う。

 


Susumu Yokota - Tobiume

 

 

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二つめは2002年発表の『sound of sky』。『sakura』とは打って変わってダンスビートに溢れたハウス・アルバム。ここでもエレピの音色が前面に出されており、ダンスビートといえども猛々しさやテンションを沸騰させるような劇薬感はなく、全体として落ち着いた雰囲気だ。硬質な、ゴツゴツした手触りのビートと、ソフトな鍵盤類の対比からなるコントラストのきめ細やかさが素敵。デザイナーとして働いていた経験がある方だからだろうか、音の使い方が視覚的な気がする。ひとつひとつの音を、色や風景画として捉え、並べているような。クラブで即効性を持って機能するようなダンスミュージックというよりは、ダンスという行為を通じて複雑な精神分析を行っているようなこの内向的な感覚がYokotaの強みだろう。誰でも提示できるセンスではない。特に最終曲「Sky And Diamond」は、夜の歓楽街の雑然とした賑々しさの中でふと誰かが零した溜め息のように光る、印象的な一曲だ。

 


Sky and Diamond - Susumu Yokota

 

 

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そして三つめは、2007年発表『Love or Die』。三拍子という縛りを設けて作られたこのアルバムにおいてYokotaはその複雑な思想性、死生に対する観念を大きく示した。一曲一曲に物々しい、暗示的なタイトルがあり、(たとえば11曲目のタイトルは「邪悪な嘘から偶然に生まれた聖なる儀式」という意なのだそうだ)時にジョイ・ディヴィジョンのような憂鬱で削ぎ落とされたギターを鳴らしながら、時にやはりエレピのサイケデリックな音色を伴いながら、精神的な深淵への潜行が行われていく。マイナー調のメロディーが全体を包み込み、濃い影を落とす。その音楽に入り込んでいけば、ループするひとつひとつのフレーズが、まるで輪廻を描いているように感じられても来る。淡い色合いで統一されたサウンドスケープは聴けば聴くほどに開かれていく。こちらが求めれば求めるほどに、滋味が滲んでくる。

そこにはハウスもある。アンビエントもある。アシッドもある。クラシックの香りもある。あらゆる音楽が意識・無意識の境の中で混ざり合い、混交に混交が重なり、具現化された「愛するか、死か」という謎に満ちた問い。Yokotaはなにを思い、このアルバムを作ったのか。その途方も無い思索の道を音楽と共に想像することに意義があるのだろう。人間が持ち得るイマジネーションの扉を容赦なく開く快い薫風のような、しかし表情はどこまでも険しい、儚さに満ちたワルツが作り上げる透徹した結晶。

終盤の、10、11、12曲目。この三曲の流れは特に濃く、あらゆる音楽的境界線が消滅した、完全な孤絶を伴った巨視的な世界が完成している。

 


Susumu Yokota - The Now Forgotten Gods of Rocky Mountain Residing in the Back of The North Woods

 

Susumu Yokotaを聴きたい、と思った時、手が伸びるのは大体この三作だ。そこには秘密がある。謎がある。だからこそ作品が永遠性を持ち得ているのだと思う。彼のこの三作はいずれも古い作品だが、過去と現在の境目をナチュラルにほぐし、その音楽からありありとわかる、厳然として強い表現欲求によって「いま」に生きる私たちを繋ぎ止めるような空気の漂いがある。

Susumu Yokotaの作品をいまなぜ聴きたいと思うのか、と問われれば、それが現代に失われた純粋芸術だからだ、と答える。いまは芸術の本質的部分、表現したいという欲望に真っすぐ向かうことのできる世界ではない。あらゆる責任を背負うさまを見せ、戦略性を身につけ、政治的・理論的正しさを備え、アピールしていなければ「表現すること」のスタートラインにすら立つことを許されないような、あまりに相互監視的で、美しさ・整合性を求めるあまりに混濁し過ぎている「いま」現在の世界において、Susumu Yokotaの音楽はどこまでも切なくてたまらない。鳴らしたい音を、繰り返し醸成された自らの思想に基づいて鳴らす。そんなふうに表現欲求だけを示しながらアーティストたる人間が生きていくことは難しいのが「いま」だ。Susumu Yokotaの音楽が身に迫る。失われているものがそこにあるのだ。しかし昔は良かった的なノスタルジアにならず、現代性を持って音が聴こえてくる。そこにYokota自身の広大な思考、逡巡の集積があるからだろう。苦悩を内在させている者こそが濃い音楽体験を可能にするのだと、Susumu Yokotaの音楽を聴くと痛感する。

Susumu Yokotaの音楽は忘却されてはならない。そこにある精神性、表現欲求、苦悩の濃密さが再検証され、世界に今一度受け入れられて、参考にされて欲しいと願う。純粋な表現への欲望を大切にする心が、世界の見晴らしを良い方向へ変えていく。時を越えてSusumu Yokotaが「いま」を生きる私たちに伝えるのは、その歴然とした真実なのではないか。

 

 

(文:Ohno Tamio)

 

イアン・マッケイが起こした革命。ディスコードレコードとストレートエッジ

 

今回もPUNKについて書かせてもらおうと思う。

Ian MacKaye(イアン・マッケイ)という人物を知っているだろうか。

彼は高校生ながらに音楽レーベル「Dischord Records」を立ち上げ、80年代のハードコアシーンの先頭に立った男である。

今回はイアン・マッケイと彼が起こしたムーブメントについて書こうと思う。

 

Tales of Perversion

 

 

 

・音楽活動

 

彼は1972年に初めて学校の仲間とバンドを組み、そこから
The Teen Idles、Minor Threat、FUGAZIなど数多くのバンドを結成する。

(厳密には他にも多くのバンドに携わっているが今回は特出するバンドについて紹介する)

 


The Teen Idles(ティーン・アイドルズ )

 

1979年結成
1980年解散

活動期間は短いが彼らの活動が後述するDischord Recordsというレーベルを作った。

ジャンルとしてはこの頃はまだガレージパンク色が強い。

トランジスタアンプを無理やり歪ませたようなギターと疾走ドラム、歌というより雄叫びに近いのだが要所でテンポを下げたり気だるそうに歌ったりとユーモアさもある。

『Minor Disturbance Ep』というミニアルバムを出しており、何度かリイシューもされている。

Dischordのルーツとして1度は聴いてほしい1枚だ。

ほとんどの曲が1曲あたり1分前後なので1枚通しても10分以内に終わる。

 


The Teen Idles - Minor Disturbance [Full Album]

 

 

MINOR THREAT(マイナースレット)

 

80’sハードコアを語る上では欠かせないバンドの一つだろう。

1980年に結成
1983年に解散(今知ったがその間に一度解散している。)

このトランジスタアンプをファズで歪ませたサウンドはUSハードコアの代名詞ともいえるだろう。

彼らのサウンドや曲調はその後の音楽にも強い影響を与えており、ここからエモ、メロコアなどパンクがさらに枝別れをする分岐点としてよくあげられる。

3枚のEPをリリースしているが、現在はそれらすべてが収録されたコンプリートベストがあるのでそれを聴けばマイナースレットを全曲網羅できる。

個人的にPUNK史を語る上では欠かせないアルバムだ。


Minor Threat - Complete Discography Full Album (1989)

 

 

Fugazi(フガジ)

 

1987年結成。

ジャンルとしては80年代ハードコアに位置付けされるが、その活動や音楽スタイルは少し風変わりでポストロックやエモ、アバンギャルドなど様々な捉え方をされる。言ってしまえばFugaziというジャンルが確立していたのだろう。(イアン本人は当時新しかった「エモ」というジャンルに分類されることを嫌がっていた)

従来のパンクバンドと違いモッシュ行為などをしないように諌め、ライブ前に観客にあらかじめ歌詞カードを配布し曲をしっかり聴いてもらうように努めていた。

モッシュしたい客だけフロアに残し、残りの客をステージにあげるなど前衛的なライブ活動をいくつも行なっていた。

またイアンの意向によりライブのチケット代は子供なども気軽に来れるように絶対に6ドル以下にするなど音楽シーンを守り、後世につなげるための活動に注力したバンドとしても有名である。

 

オススメのアルバムは2枚ある。

1枚目は『Red Medicine』


Fugazi - Red Medicine [1995, FULL ALBUM]

こちらはマイナースレットのようなハードコア色が強い。

サウンドはさらに極悪になり、歌は詩的に、メロディックになっている。

2曲目のBed for the Scrapingは後世に残したい1曲と言っても良いだろう。

かっこいい。

 

2枚目は『The Argument』


Fugazi - The Argument [2001, FULL ALBUM]

こちらは『Red Medicine』と比べるとかなりダウナーでパンクというよりポストロックなどに近い気がする。

このアルバムがスタジオアルバムとしては最新のアルバムであり、Fugaziの後期最高傑作である。ハードコアやパンクがあまり好きじゃなくてもこのアルバムはかっこいいと思うのではないだろうか。

歌詞もかなり詩的でぜひ歌詞を見ながら聴いてほしい。

 

 

 

Dischord Records

 

イアンはティーンアイドルズの活動で得た収益を使って自身のレーベルを作った。

それがDischord Records(ディスコード・レコーズ)である。

スタンスとしては仲間内でのレコード制作、流通を手がける地元密着型レーベルであり、自身が良いと思ったバンドしかリリースしないのだが、それはある意味インディーズレーベルの理想であった。

後にディスコードはハードコアシーンに大きな影響を与えるバンドを多く輩出し、ワシントンD.Cにディスコードありと世界中に知らしめたのである。

その影響は発足され40年経った今でも根付いており、ディスコードのバンドは多くのアーティストに影響を与えている。

 

ディスコードのアーティストで何を聴いて良いかわからないのであれば、このアルバムがオススメである。
『20 YEARS OF DISCHORD BOX』
このオムニバスは2000年までのディスコードのバンドが大体網羅されている。

Amazon | 20 Years of Dischord | Various Artists | 輸入盤 | 音楽 

その中でもオススメのディスコードのバンドを簡単に紹介する。

(脱線してしまうので細かい説明は省略)

 

Void


Faith Void Split (1982) (full album)


Embrace


Embrace - Embrace LP (1987) [FULL ALBUM]


Jawbox


Jawbox - Grippe (Dischord Records #052) (1991) (Full Album)

 

この3バンドは1980〜1990年代を代表するディスコード系のバンドだろう。

 

 

 

・Straight Edge

 

イアンの活動はひとつのライフスタイルも生み出すことになる。

それがStraight Edge(ストレートエッジ)である。(SxEと表記されることもある)

ストレートエッジとは音楽文化における思想で、飲酒、喫煙、違法薬物、快楽目的の性行為を戒めることを基本理念とし、それまでのロック音楽の「セックス、ドラッグ、ロックンロール」という概念に対しての反抗を意味している。


その起源はイアン・マッケイの初期のバンドThe Teen Idlesの活動まで遡る。

 

当時高校生だった彼らはアメリカツアー中、未成年という理由で数々のクラブなどで出演を断られていた。
そこで彼らは店のオーナーを説得し自らの手の甲に×印を描き店員が未成年にアルコール類を出さないようにするという条件で活動を許可される。それが西海岸の多くのクラブに広まり、未成年は手の甲に×印を描くことでクラブへの出入りを許可されるようになったのだ。

この印はThe Teen Idlesが出した唯一のEPのジャケとなり、いつしか手の甲の×印は禁欲のシンポルとなった。

The Teen Idles - The Teen Idles (2006, CDr) | Discogs
その後イアンはマイナースレットの楽曲「Straight Edge」でDON'T SMOKE, DON'T DRINK, DON'T FUCKと歌い「喫煙をしない」「ドラッグをしない」「酒を飲まない」「快楽目的のセックスをしない」という思想がストレートエッジ思想として定着していったのであった。

 

しかしその思想は徐々に膨れ上がり、一部のファンの中で宗教的な捉えられ方をされてしまう。

主にワシントンやボストンのクラブなどでは酒を飲んでいる客に殴りかかったり、タバコを吸っている人に水をかけたりと過激な人間が増え暴動に繋がってしまった。

イアンの考えとしてはストレートエッジは個人の意識の持ち方であり強要するようなものではなく宗教的な禁欲思想には共感しないと発言している。

 

ストレートエッジ思考は現代でも多くの標榜者がおり、その層はハードコアや音楽アーティストの幅を超え多くの人に共感されている。(現在では禁欲からさらに進み菜食主義なども取り入れられることが多い)

 

 

 

1980年代はPUNKというジャンルにとって大きな分岐点と言われている。

これまで、あくまでアンダーグラウンドだったPUNKが80年から90年にかけてエモやポップパンク、ポストパンクなど様々な形に変化し、PUNKというジャンルは世界で認知されメジャー化していった。

そんな過渡期の中、

The Teen Idles、Minor Threat、Fugazi

それぞれのバンドは常にシーンの先頭に立っていた。

 

Dischord Records

ワシントンD.Cから多くのバンドを輩出し、USハードコアの中枢を作り上げた。

 

Straight Edge

そしてその思想は音楽シーンだけではなく多くの人々の思想や概念の標榜となった。

 

 

それが、イアン・マッケイが起こした革命 なのである。

 

 

 (文:ゴセキユウタ)

 

カリスマ殺人鬼カップルみたいなオルタナティヴ・ポップデュオ「Jockstrap」によるミニアルバム『Love Is The Key To The City』を言葉で表した。

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伝統的な手法をもって描かれた、パンティーの油絵の上に、切り立てほやほやの左薬指がおかれているような。薄ピンクのなめらかな肌から、ロマンチックと流血が止まらない。血液なのか絵の具なのか定かではないが、キャンバスの所々にきらめく赤のしずくが小さくてかわいくて胸を締め付けられる。描かれたパンティーは誰のもの、置いてある薬指は誰のもの、頭に浮かぶこの少女は一体誰のものなの。そして想いが溢れる私の顔面にあるのは、悲しい笑みと、恋する涙。みたいな。

 

"Heyley"(MV)

 

(文:シャンプーウーマン)

 

COVID-19とレコ屋店員の嘆き

 

今日も僕は自宅待機、です。

 

僕は普段、都内のレコードショップの店員として働いています。2019年の1月、思い切って音楽業界に飛び込みました。日々膨大な量のCDに触れながら店頭に立ち、時には新譜のポップなども作り、最近では買取査定をこなすことも多くなりました。性に合っているし、自分の知識を活かせるフィールドです。

 

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しかし、そんなレコ屋が今、思わぬ形で脅威に晒されています。

 

新型コロナウイルス感染症(COVID-19)が流行りだした頃は、「まあちょっとタチの悪いインフルエンザみたいなもんだろ」とさほど気にしていなかったのですが、ここ数ヶ月で状況が大きく変わったのは皆さんもご存じの通り。僕が勤めている店も土日の臨時休業を余儀なくされました。

 

まさか、こんなことになってしまうとは。もはや「人生は何が起こるか分からないから楽しい!」とか悠長なことを言っている場合ではない。

 

今回はこの危機的状況を言葉にしておこうと思い、こうして筆をとっています。ここ数日色々見聞きしたことを元に、レコ屋の店員の端くれとして、僕が感じている不安要素をいくつか挙げてみました。

 

 

* * *

 

・接客業としての辛さ

 

これは同業の方々であれば同じ境遇だと思いますが、業態的にリモートワークが不可能なのが接客業です。自宅にパソコンとビデオチャットツールさえあれば仕事が出来る人たちが、正直羨ましいです。

自分で選んだ道なのだから仕方ないと割り切っていますが、少しでも感染リスクを避けるためには外出しないのが一番。でも働かないと生活が成り立たない。

 

 

* * *

 

・売り上げの減少とジレンマ

 

外出の自粛要請に伴い、当然ながら店の売り上げも落ちています。

じゃあ、通販で稼げば良いのでは?というところなのですが、実際ネットでの注文は伸びており、それは非常にありがたいことです。店が存続出来ている大きな理由でもあると思います。

しかし通販の受注が増えるということは、それだけ配達員の方々の負担が大きくなるということであり、当然彼らの感染リスクも高くなる。頭が上がりません。

なので、僕個人としては手放しに「通販で買ってね!」と声を大にして言うことは非常に憚られるわけです。だからと言って「店頭に来てね!」とも言えない。でも、買ってくれないと店の存続に関わるし、従業員への賃金も支払われなくなる。「不要不急の買い物によって自分たちの生活が保たれている」という事実。こういったジレンマは、おそらく音楽(もっと言えば音楽のみならず文化的活動全般)に関わる多くの人々が感じていることだと思います。

 

 

* * * 

 

・非正規雇用としての収入

 

僕は社員を目指してはいますが現状アルバイト店員であり、いわゆる「非正規雇用」の立場です。比較的自由に休みを取れる職場であり、フットワークの軽さが僕には合っているのですが、やはりネックになるのが賃金です。

正直、時給は決して高いとは言えません。本当に音楽が好きで、その熱意がなければおそらく続かないし、僕は趣味を仕事にすることでしか生きられない人間なので、こうして今も働いています。

 

そんな僕の日常がウイルスによって崩壊の危機に直面することになるなんて、全く想像出来ませんでした。

 

全店的な売り上げ減少に伴い、従業員の残業は基本的に「禁止」。当面の間は時短営業となり、土日は臨時休業。本来出勤だった日は賃金の6割が支給されるのがまだ救いですが、今月の給料日が怖いです。

ありがたいことにライターの仕事はあるのですが、今の自分の力量では家計が潤うレベルまではいかないです。むしろ、少しでも対価がもらえること自体がまずありがたい。

そこで、副業を探すべく週1〜2日程度で出来る在宅のアルバイトを色々探してみたのですが、まあ…そう簡単に自分に合ったものが見つかるなんてこともなく。もっと資格とかスキルとか、身に付けておくべきだった。在宅以外でも探しましたが、そもそもこんなご時世。みんな考えることは一緒で、条件が良いものはとっくに埋まっていました。幸い、契約に至った案件もあるのですが、どれだけの仕事が舞い込むかは不透明で、漠然とした不安は残ったままです。

すぐに30万円くれ。

 

 

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・文化的損失

 

レコ屋は音楽の「発信地」としてまだまだ機能できると信じています。人の手によって形作られていく音楽シーンの、その大きな担い手の一つだと信じています。僕はそういう場所に身を置くことが出来ている現状に、ある種の「誇り」を持っています。

 

レコ屋が無くなれば、程度の差はあれど、それは文化的損失になる。「そんなことは起こらない」とは、もう言えません。レコ屋の閉店はすでに事実としてあります。僕自身に降りかかる可能性だってあります。でも、前述の通り手放しに「買ってくれ」とは言えない。

ただ、こんな状況でも新譜は出るし、中古商品も入荷します。そのことを忘れないでほしい、と願うことしか出来ません。

 

 

※追記:2020年4月7日

明日から店が当面の間休業となりました。ただ、通販や査定は継続されるため、物流は止まりません。僕もその対応のため内勤となりました。

「通販の受注が増えれば配達員の感染リスクも高くなる」といった旨のことを書きましたが、生活のために仕事を休めないのは配達員の方々も同じかもしれません。それに、もっと広い視野で考えると、何の対策もされずに全ての物流がストップしてしまえば僕らの引きこもり生活さえも送れなくなるのでは…?

なので、金銭的余裕がある方はオンラインショップを覗いてみてください。眺めるだけでもきっと楽しいと思います。

なお、本記事ではあえて店名や企業名は伏せてあります。ここに書かれていることは僕の個人的な所感であり、会社の考えを代弁するものではないからです。また、これは決して僕だけの問題ではなく、広く皆様に考えていただきたい事象である、といった狙いもあります。

 

 

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賃金の話をしましたが、その日暮らしも危うい方々に比べると、自分は恵まれている方だとは思います。なんとか食い繋ぐしかない。

 

今自分に出来ることは何か。

まずは、つべこべ言わずに自宅待機。仕事や必要な買い物以外は、基本的に家で過ごす。

予防の徹底。マスク着用は当たり前。手洗いうがいをしっかりと。最近は、帰宅したらすぐにiPhoneを除菌ウェットティッシュで拭くようにしてます。

そして、こういう時だからこそ映画を観たり本を読んだり、今まで聴いてこなかった音楽に触れたり、インプットを大事にする。頭を整理する。文章を書く。

 

僕はまだまだ「ライター」を名乗れるほどの人間ではないと思います。その辺のブロガーに毛が少し生えたくらいです。今は粛々と、しかし確実にスキルアップを図る時期なのだと割り切って、少しでも楽しいことを見つけて日々を過ごしていこうと思います。

 

 

(文:おすしたべいこ)