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「いま」の音楽としてSusumu Yokotaを捉えてみると

 

Susumu Yokota。日本語表記では横田進。今年に入ってからずっと彼の音楽が気になる。彼は既に亡くなっており、その膨大な作品群も時代の波の中にほとんど埋もれかけているように思える。そんなYokotaの作品がいま、気になってしょうがない。そこになにかがあるような気がするのだ。

 

70以上の作品がある。変名の作品も多いし(PRISM, ringo, STEVIAなど)、入手困難・聴取困難なものも多い。更にその時々でまったく違う音楽スタイルに移り変わる傾向にある。彼のすべてを理解することは不可能なのかもしれない。Susumu Yokotaというひとりの人物自体が、私たちに遺されたひとつの難解な問いとも言えるだろう。そのミステリアスさが気になり、何度も聴いてしまう。

自分もYokotaの作品をすべてくまなく聴けている訳ではない。正直肌に合わない作品もあったし(初期のアシッド・テクノ色の強いアルバムはサウンドが古びている気がしてあまり面白くなかった)、一作一作があまりに謎めいた濃密な内容なので次々にどんどん聴けないというのもある。ただ、そんな中で特にどうにも引っかかったSusumu Yokota作品が、三作ある。

 

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一つめが1999年発表の『sakura』。彼の作品の中で最も有名なものであり、キャリアを見渡してもある種孤立した立ち位置の作品だ(すべての作品がそれぞれに孤立し、隔絶しているとも言えると思う)。フェイザーがかったエレピのサイケデリックな音色やサンプリング、チープなシンセサイザーのレイヤーを基本的な土台とした、アンビエントというにはより肉体的な、しかしダンスミュージックというにはあまりに融解し切った音楽がそこにはある。音質的な解像度はあまり高くないが、それが逆に雰囲気を醸し出している。ヴィンセント・ギャロバッファロー'66」は画質の解像度の低さを効果的に利用して固有の映像的美学を作り上げた好例だが、『sakura』もそれに通ずるような、ローファイさが生み出し得る美的感覚を研ぎ澄ませた作品だ。しかしサウンドはローファイでもローテクではない。その道を極めた音楽家にしか出来ない絶妙な音の抜き差し。コード感の究極的な洗練。一曲選ぶとするなら「Tobiume」。Yokotaの楽曲の中でも一際センチメンタルで切ないメロディーが反復し、響き合う。聴くたびに感動が生まれる。どこか淡白さのある、感情のこもり過ぎていないシンセサイザーが、切ないメロディーとうまく合致している。近年のYumi ZoumaやMen I Trustなどの、いわゆるネオソウル系の曲などを聴いても思うが、強い切なさ、強い悲しさは抑制を効かせることで引き立つものだ。抑制的な音楽という面で、バッチリ現代にも繋がる一作だと思う。

 


Susumu Yokota - Tobiume

 

 

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二つめは2002年発表の『sound of sky』。『sakura』とは打って変わってダンスビートに溢れたハウス・アルバム。ここでもエレピの音色が前面に出されており、ダンスビートといえども猛々しさやテンションを沸騰させるような劇薬感はなく、全体として落ち着いた雰囲気だ。硬質な、ゴツゴツした手触りのビートと、ソフトな鍵盤類の対比からなるコントラストのきめ細やかさが素敵。デザイナーとして働いていた経験がある方だからだろうか、音の使い方が視覚的な気がする。ひとつひとつの音を、色や風景画として捉え、並べているような。クラブで即効性を持って機能するようなダンスミュージックというよりは、ダンスという行為を通じて複雑な精神分析を行っているようなこの内向的な感覚がYokotaの強みだろう。誰でも提示できるセンスではない。特に最終曲「Sky And Diamond」は、夜の歓楽街の雑然とした賑々しさの中でふと誰かが零した溜め息のように光る、印象的な一曲だ。

 


Sky and Diamond - Susumu Yokota

 

 

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そして三つめは、2007年発表『Love or Die』。三拍子という縛りを設けて作られたこのアルバムにおいてYokotaはその複雑な思想性、死生に対する観念を大きく示した。一曲一曲に物々しい、暗示的なタイトルがあり、(たとえば11曲目のタイトルは「邪悪な嘘から偶然に生まれた聖なる儀式」という意なのだそうだ)時にジョイ・ディヴィジョンのような憂鬱で削ぎ落とされたギターを鳴らしながら、時にやはりエレピのサイケデリックな音色を伴いながら、精神的な深淵への潜行が行われていく。マイナー調のメロディーが全体を包み込み、濃い影を落とす。その音楽に入り込んでいけば、ループするひとつひとつのフレーズが、まるで輪廻を描いているように感じられても来る。淡い色合いで統一されたサウンドスケープは聴けば聴くほどに開かれていく。こちらが求めれば求めるほどに、滋味が滲んでくる。

そこにはハウスもある。アンビエントもある。アシッドもある。クラシックの香りもある。あらゆる音楽が意識・無意識の境の中で混ざり合い、混交に混交が重なり、具現化された「愛するか、死か」という謎に満ちた問い。Yokotaはなにを思い、このアルバムを作ったのか。その途方も無い思索の道を音楽と共に想像することに意義があるのだろう。人間が持ち得るイマジネーションの扉を容赦なく開く快い薫風のような、しかし表情はどこまでも険しい、儚さに満ちたワルツが作り上げる透徹した結晶。

終盤の、10、11、12曲目。この三曲の流れは特に濃く、あらゆる音楽的境界線が消滅した、完全な孤絶を伴った巨視的な世界が完成している。

 


Susumu Yokota - The Now Forgotten Gods of Rocky Mountain Residing in the Back of The North Woods

 

Susumu Yokotaを聴きたい、と思った時、手が伸びるのは大体この三作だ。そこには秘密がある。謎がある。だからこそ作品が永遠性を持ち得ているのだと思う。彼のこの三作はいずれも古い作品だが、過去と現在の境目をナチュラルにほぐし、その音楽からありありとわかる、厳然として強い表現欲求によって「いま」に生きる私たちを繋ぎ止めるような空気の漂いがある。

Susumu Yokotaの作品をいまなぜ聴きたいと思うのか、と問われれば、それが現代に失われた純粋芸術だからだ、と答える。いまは芸術の本質的部分、表現したいという欲望に真っすぐ向かうことのできる世界ではない。あらゆる責任を背負うさまを見せ、戦略性を身につけ、政治的・理論的正しさを備え、アピールしていなければ「表現すること」のスタートラインにすら立つことを許されないような、あまりに相互監視的で、美しさ・整合性を求めるあまりに混濁し過ぎている「いま」現在の世界において、Susumu Yokotaの音楽はどこまでも切なくてたまらない。鳴らしたい音を、繰り返し醸成された自らの思想に基づいて鳴らす。そんなふうに表現欲求だけを示しながらアーティストたる人間が生きていくことは難しいのが「いま」だ。Susumu Yokotaの音楽が身に迫る。失われているものがそこにあるのだ。しかし昔は良かった的なノスタルジアにならず、現代性を持って音が聴こえてくる。そこにYokota自身の広大な思考、逡巡の集積があるからだろう。苦悩を内在させている者こそが濃い音楽体験を可能にするのだと、Susumu Yokotaの音楽を聴くと痛感する。

Susumu Yokotaの音楽は忘却されてはならない。そこにある精神性、表現欲求、苦悩の濃密さが再検証され、世界に今一度受け入れられて、参考にされて欲しいと願う。純粋な表現への欲望を大切にする心が、世界の見晴らしを良い方向へ変えていく。時を越えてSusumu Yokotaが「いま」を生きる私たちに伝えるのは、その歴然とした真実なのではないか。

 

 

(文:Ohno Tamio)